毎日の自由な時間は限られているので、なんとかして有効活用して、やりたいと思っていたたくさんのことをしたい。なりたい自分になりたい。
しかしながら、私は根が怠け者。面倒くさがり。
面倒くさくならないように工夫することも実は面倒くさい。
楽するための工夫や思考って、ただただ時間をこなす事より面倒なことが多い。でも、工夫できたことや思考したことは後々に効いてくるはずだと見積もっているし、信じたい。
とは言え、その工夫するための時間はなかなか取れず、まとまった時間が貰えると、日々の疲れを癒す為に使ってしまいがち。僕のような怠け癖があり、意思が弱い人間にとって、「面倒くさい」は人生の敵なのです。
日々思うことはあるはずなのですが、時と共に忘れ去られるか、風化していきます。
忘れないようにと、一瞬の閃きや思いつきを携帯しているAndroid端末からEvernoteにメモするのですが、数日後に読み返すと違う考えだったり、思いつきが進化していたり、いらなくなったりしていて、その頭の中の情報の進退と感性の変化にいつも驚きます。
そんな感じで、blogに書こうと思ってメモしたりしても、こいつは記事として使えないなと思えてきたりしてボツになることもよくあります。
または、温存しているうちに誰かが似たような記事を公開したりして、ボツになります。
そんなのお構いなしに自分の備忘録の為や、頭の中の整理、文章を書く練習として書けばいいのですが、そんなことを書いても、見てくれた貴方に時間の無駄だったな、と思われる事となるのが嫌です。
しかし、有益なことを発信したり面白い事を書くのは、なかなか難しくて。まだまだ頑張らなければなりません。
そんな事を最近、うろうろと考えていたりしたのですが、
以下のやよこさんのblogの文章ではっと思いました。
やっぱり、書いて公開することで何か意味があるかもしれないと。
前述したように、読んでくれた方に無駄な時間を使わせてしまうことが多いでしょう。
しかし、何もしないと何も起こらないのです。
カオス理論の有名な比喩の一つとして「バタフライ効果」というものがあります。
ある場所での蝶の羽ばたきが、そこから遠く離れた場所の将来の天候に影響を及ぼす程になることがあるというようなことです。
要するに、些細な初期条件の違いが、長時間経過した後には誤差では済まされない大きな違いとなりそれは予測不可能だということを表しています。
つまり、blogを書いたりして発信し続けていれば、いつかどこかで何か目に見える変化として現れるかもしれません。それがいつなのか何なのか分かるはずもないのですが、いつかどこかで良い事に繋がるといいなぁ。なんて思っております。例え自分の知らないところだとしてもね。
しかしながら、私は根が怠け者。面倒くさがり。
面倒くさくならないように工夫することも実は面倒くさい。
楽するための工夫や思考って、ただただ時間をこなす事より面倒なことが多い。でも、工夫できたことや思考したことは後々に効いてくるはずだと見積もっているし、信じたい。
とは言え、その工夫するための時間はなかなか取れず、まとまった時間が貰えると、日々の疲れを癒す為に使ってしまいがち。僕のような怠け癖があり、意思が弱い人間にとって、「面倒くさい」は人生の敵なのです。
日々思うことはあるはずなのですが、時と共に忘れ去られるか、風化していきます。
忘れないようにと、一瞬の閃きや思いつきを携帯しているAndroid端末からEvernoteにメモするのですが、数日後に読み返すと違う考えだったり、思いつきが進化していたり、いらなくなったりしていて、その頭の中の情報の進退と感性の変化にいつも驚きます。
そんな感じで、blogに書こうと思ってメモしたりしても、こいつは記事として使えないなと思えてきたりしてボツになることもよくあります。
または、温存しているうちに誰かが似たような記事を公開したりして、ボツになります。
そんなのお構いなしに自分の備忘録の為や、頭の中の整理、文章を書く練習として書けばいいのですが、そんなことを書いても、見てくれた貴方に時間の無駄だったな、と思われる事となるのが嫌です。
しかし、有益なことを発信したり面白い事を書くのは、なかなか難しくて。まだまだ頑張らなければなりません。
そんな事を最近、うろうろと考えていたりしたのですが、
以下のやよこさんのblogの文章ではっと思いました。
やっぱり、書いて公開することで何か意味があるかもしれないと。
前述したように、読んでくれた方に無駄な時間を使わせてしまうことが多いでしょう。
しかし、何もしないと何も起こらないのです。
カオス理論の有名な比喩の一つとして「バタフライ効果」というものがあります。
ある場所での蝶の羽ばたきが、そこから遠く離れた場所の将来の天候に影響を及ぼす程になることがあるというようなことです。
要するに、些細な初期条件の違いが、長時間経過した後には誤差では済まされない大きな違いとなりそれは予測不可能だということを表しています。
つまり、blogを書いたりして発信し続けていれば、いつかどこかで何か目に見える変化として現れるかもしれません。それがいつなのか何なのか分かるはずもないのですが、いつかどこかで良い事に繋がるといいなぁ。なんて思っております。例え自分の知らないところだとしてもね。